この山車は八阪神社(前出No14)の例大祭の付祭に奉曳されるもので2台あり、1台は万灯の上には波に旭日(太陽)を、もう1台は群雲に月を冠している3層の笠鉾。心柱の高さを誇っていたが、大正12年頃、電線の架線にかかるのを避 […]
この山車は芦ケ久保にあった2台の中の1台で、3層の笠鉾である。かつては旧暦6月15日に森下地区天王山の八坂神社の夏祭り(現在7月21日)で奉曳された。当初は屋台であったが、明治30年頃、心柱を立て笠鉾とした。 屋型の彫刻 […]
宝塔の塔身(軸部)は一般に円柱形であるが、今市の宝塔は四角柱なので四面塔とも呼ばれ、緑泥片岩の組立式で、他に例がみられない。 高さ40.8cm、基檀一辺23.6cmを測り、軸部の正面には種子バク(釈迦如来)と文安2年(1 […]
板碑は鎌倉時代に起こり、室町時代に形式化しながらも増加し、中世に限って造立された石造りの卒塔婆の一種で武士の間で広まった供養塔である。先祖の追善供養や自己の生前に行なう逆修供養のために建立。全国でも特に埼玉県を中心に関東 […]
若林家は、松山城主上田氏の家臣・若林主計(寛永20年〔1643〕没)が落城後、下郷に移り住んだと伝えられ、当家は代々組頭をつとめて、年番で名主役を兼ねていた。 明治になって、横瀬村の戸長、連合戸長、初代村長を歴任している […]
加藤家は、鉢形城主北條氏邦の家老・加藤駿河守の子孫で、代々中郷の名主の家柄を伝え、四郎次・四郎左衛門・亀三郎・四郎治は、それぞれ、忍藩秩父領の割役名主(名字帯刀)をつとめている。 当家所蔵の古文書は近世の地方文書、秩父領 […]
かつて武甲山の山頂には、蔵王権現社・熊野権現社・大通両権現社やその末社などが所々に鎮座していたという。蔵王権現社が本社とされ、明治初期には御嶽神社と改称された。 その御神体が安置されている神輿形宮殿は、御嶽神社本殿の中に […]
本像は像高101.3㎝、等身大を越える法量をもち、頭部に大きく重たげな冠をいただき、眉をつり上げ両眼を見開き口を大きく開けて舌先を覗かせた激しい忿怒の相を表す通例の閻魔王像である。修理前は頸部左右の部材が欠失していたため […]
摩利支天像は、地元の剣術家加藤平八から気楽流柔術十四代本橋惣五郎(1842~1912)が譲り受けたもので、それ以前は久那の新井氏が所持していたものと伝えられる。明治43年に惣五郎が門弟たちと図って、小持山にある持山寺(通 […]
十六善神は、般若経の護持を誓った十六の夜叉神。本尊を中心に忿怒形、菩薩形、僧形など22体の小像が、階段上に並べられている。台座裏の墨書銘によれば、安永7年(1778)大仏師木村大内蔵により製作されたものである。中尊は蓮華 […]
里宮の社務所は3部屋に間仕切りできる建物で、間仕切には極彩色の彫刻欄間をはめ、杉戸には全て絵画が描かれている(前出No10)。欄間は3種類ある。 一つは武甲山の霊験と信仰を表したもので、3面1組(縦68.2cm、横174 […]
逸見家は代々郡会議員、村消防組頭、村長等を歴任し、町の発展に多大な貢献をしてきた家柄である。 住居は長屋門を有する大きな総2階建ての茅葺屋根の入母屋造りであり、嘉永4年(1851)の棟上更納帳が残されている。 この家の長 […]